アトリエの方まで歩いていくと、五人くらいの人影が見えて、甲斐の帰りを待っていた。

「甲斐ー。おまえ遅いよ」

甲斐の姿に気付いた男達が悪態を吐く。

「悪い悪い。紹介するよ、幼馴染の瀬稲薫と、その友達の佐原花音ちゃん」

「は、初めまして……」

花音も薫も現場の規模が思った以上に大きくて、お互いに緊張していることがよく分かった。

「偶然そこで会ってさ、良かったら見に来ないかって誘ったんだ。構わないか?」

「それは構わないけど、怪我しないように気をつけて」

甲斐に言うと、後半は花音たちに投げかける。

二人は頷くと、改めて辺りを見回した。

「すごいね。アトリエって、どこでもこんなに大きいもんなの?」

薫が、甲斐に言った。

甲斐は、「わかんない。けど、結構でかい方だと思うぜ」

と、返した。

「——あら? 花音は…」

気が付くと、花音の姿がなくなっていた。

「花音ー!」

薫が呼ぶと、花音が向こうの隅で手を振った。

「薫ー! こっちのこれ。すっごく面白そう!」

薫と甲斐が側へ行くと、花音はペンキの缶を再び指さした。

「ペンキ塗り、やってみたい?」

甲斐が言うと、花音の目がキラキラと輝いた。そのまま大きく頷くと、甲斐に言われるまま腕をまくった。

花音がペンキを手にしてから何時間かが過ぎ、もう辺りはオレンジ色の光りに照らされていた。

「花音、ペンキ塗りってそんなに面白い?」

薫が、呆れ顔で聞いた。

「うん。今までは見てるだけだったから、こんなに面白いものだとは思わなかった!」

と、言って、借りたエプロンをペンキだらけにしながら、また刷毛をペンキの缶へ入れた。

薫は、今日の買い物がお流れになった事を多少残念に思っていたが、

「ケーキバイキングいったし、ま、いっか……」

と、花音の後姿をベンチに座って見守ることに決めた。

「ほら、飲み物」

薫の横にどかっと腰を下ろし、甲斐が白い紙コップに入った麦茶を手渡してくれた。

「ありがとう」

「花音ちゃんって面白い子だね。あんなに熱心になっちゃって」

くすくすと笑いながら、甲斐が言うと、

「うん。でもそこが花音らしくていいのよ。素直だから表情も豊かで」

薫は、そこまで言うと、甲斐の方を向いて、

「私の一押しは花音の笑った顔。すっごく可愛いのよ」

と、まるで自分の子どもを褒めるように言った。

その時、

「見て! 出来た!」

と、花音が立ち上がった。本当に子どものような無邪気な笑顔で。手品師がするように真っ白に塗られた本棚を二人に見せた。

「ね? 可愛いでしょ?」

花音の姿に、甲斐に言いながら、薫はにっこり笑った。

甲斐は、「え、あ、ああ……」

と、言うと、花音の方へ走り寄る薫を見て、思わずくすくすと笑い出した。

「ほら。綺麗にできたでしょう?」

花音は二人に言いながら、鼻下を人差し指でふんっと擦って見せた。

薫は、「本当、良くここまでやったもんだわ。もう買い物行けないわね」

と、意地悪を言ってみた。

「あ、ご、ごめん!」

慌てて花音が言うと、「なーんてね。冗談よ。ケーキバイキング行ったし、甲斐君との再会もできたしね」

と、言い、少し間を置いて、

「まあ、甲斐君は偶然だけどね」

と、付け足すと、花音の顔を見て笑い出した。

「え? ちょっと、どうしたの?」

「花音、あんたその顔!」

薫に言われて、花音は鞄から鏡を取り出して覗き込んだ。

「なっ、何これ!」

鼻の下に引かれた一本に白い線に、花音は口元を押さえて振り向いた。

それから、甲斐が渡してくれた洗顔フォームを借りて、顔を洗った。

「ふう……ありがとう。気付かないで帰ってたら、大変な事になってたわ」

と、タオルで顔を拭いていた。

「大変な事?」

甲斐が何気なく聞くと、花音は青ざめながら、

「そうよ。きっと、こんな顔で街を歩いていたら、後ろ指差されて笑われちゃう……」

と、まるで何かに祟られてしまうかの様に言った。

それを聞いた薫と甲斐は、

「花音ってば、妄想しすぎー」

と、腹を抱えて笑っていた。

「だってー」

花音は、むくれて言った。——その時、

キキキキッ……。

と、花音の背中で何かの声が聞こえた。

体を強張らせ、とっさに後ろを向く。薫たちの方に向けられた背中には、真っ黒い羽をばたばたさせているものが見えた。

「キャー! こ、こうもり!」

薫がその場に尻餅をついた。

甲斐は、自分の上着でこうもりを追い払うと、冷や汗と共に息をついた。

「今の時期は夕方になるとこうもりがよく飛んでるけど、まさか背中に止まるとは……」

甲斐が、そう言って花音の肩に手を置くと、その重みで花音はストンと地面に座りこんだ。

顔を覗きこんだ甲斐が見たのは、驚きのあまりに放心状態になった花音の気の抜けた顔だった。

「だ……大丈夫?」

本当に抜け殻のような状態の花音に、甲斐は話しかけた。

それから、花音を家まで送った薫と甲斐は、そろって帰って行った。

その夜、花音はいつもより少し早く布団に入った。

「あのこうもり、怖かったけどなんか不思議な感じがしたな……」

花音は、枕元の電気を見つめながら呟いた。

その時、コンコン……と窓を叩く音がして、「あの……花音……さん?」

と、聞きなれない声がした。

恐怖心にドキドキしながら、そっとカーテンの隙間から覗くと、一人の男が木にのぼって花音の部屋に向かって申し訳なさそうな顔をしていた。

「あ、あなた誰?」

「怪しい者じゃないよ。ただ、君に謝りたくて来たんだ」

「謝りにって……私、何もされてないし、初対面だと思いますが……?」

カーテンをギュッと握り、体を半分隠しながら尋ねる花音に、男はゆっくりと話をする。

「ううん。夕方頃、僕の友達があなた方を驚かせてしまったからね。本当にすまなかった……」

「夕方頃?」

花音がそう言うと、彼は何も言わずに花音の部屋のカーテンを閉めた。

「きゃっ」

とっさに漏れた悲鳴と共に視界が暗くなる。すぐにカーテンを開くと、そこにもう男の姿はなかった。

(誰なんだろう? それに、夕方頃って……)

花音は再び布団に潜り込み、今日の夕方頃を思い返した。

(あの人は甲斐君じゃないし、甲斐君の友達にもあんな人はいなかった)

「あるとすれば——」

こうもりのことを思い出し、ドキッと心臓が跳ねた。

(ま……まさか、あのこうもりのこと……なわけないよね?)

ギュッと目を瞑ったが、すぐに布団から出ると、しっかりと窓を閉めてカーテンも閉めた。