次の日、花音は部屋の子機に手を伸ばし、薫に電話をかけた。

「はい、瀬稲です」

「あの——」

「ただ今留守にしています。御用の方は発信音の後にメッセージをどうぞ」

「あの、佐原花音です。薫にどうしても話したいことがあるの、帰ったら電話ください」

花音は言い終えると、そっと終話ボタンを押した。

「もう一度、あの人に会えないかな……」

椅子に座って、ぼんやりと天井を見上げる。そっとため息をつくと、電話が鳴り出した。

「もしもし」

「あ、瀬稲です。花音ちゃんはご在宅でしょうか?」

電話越しから薫の声が聞こえ、花音は昨夜の出来事を話した。

「へぇ、そんな事があったんだ」

「へぇって、いきなり知らない人がいたんだよ? 怖かったんだから」

冷静な薫の返事に、花音が半泣き状態で返すと、薫がさらに「だって、人間だったんでしょ?」

と、返した。

「そ、そうだけど……でも」

不安そうな声で返す花音に、

「こうもりの友達が人間だなんて、物語の世界にはあっても現実にはないわよ」

と、薫は返した。

「う……。そうだよね……。うん、そうだね。あるわけないよね」

花音は自分に言い聞かせるように、何度も声に出した。

電話を切ったあと、気分のすっきりした花音は、自分の部屋を出て、誰もいない家の中を歩き、リビングのソファーに腰を下ろした。

窓から見える家の前の道には、大きな引越し用のトラックが止まっていた。

「今日だったよね、お隣が越してくるの……」

花音は独り言を言うと、どんな人か気になりだして、結局、外に出てみることにした。

家の門の前でトラックから降りてくる業者の人たちを見つめていると、隣の家のドアから家主と思われる男が姿を現した。

(——昨日の人だ!)

花音は、その男の姿を見て、すぐに昨日の男だと認識した。

男も視線に気付いたのか、「花音さん」

と、垣根越しに挨拶をする。

「隣に越してきた沖田(おきた)(こう)です。よろしく」

百万$の笑顔。という言葉が似合うような、無駄の無い綺麗な笑顔だった。

(——綺麗な笑顔……モテるんだろうな……)

花音は勝手に大きくドキドキと音を立て始めた心臓を無視しながら、

「こちらこそ」

と、平静を装った。

「昨日は突然ごめんね」

浩の言葉に、花音はハッとして、

「あの! 何で私の名前を——」

「沖田さーん。これはどこに運びますか?」

花音の言葉を遮って、作業員が浩に話しかけた。

「今行きます」

浩はそう答えると、花音に背を向けて走り出した。

「ちょ、ちょっと! 私の質問に——」

「後でね。片付けたら家に行くよ」

走りながら軽く振返って、浩は手を上げた。

「な、何なの?」

花音は立ち尽くしたまま、浩の姿は家の中へ消えていった。

「あら、花音。何してるの?」

声を掛けられて顔を向けると、母が買い物袋を片手に門戸に手を掛けた。

「お隣、越してきたのね」

開け放しだった玄関に荷物を置いて、靴を脱ぐ。

「うん……」

花音は浩の家に次々と業者が入るのを見つめたまま呟くように返事をした。母の物音を背に聞きながら上の空でいると、

「花音、いつまでもそんなところに突っ立ってないで、ちょっと準備手伝ってもらえる?」

と、母が声を掛けてきた。

「はーい」

花音がそう言って台所に向かうと、母は、

「そっちじゃなくて、荷造りを手伝って欲しいの」

と、嬉しそうに笑った。

「え? 荷造り?」

特に旅行に行く予定は無かったはずだ。

「明日から、お父さんのいるイギリスへしばらく行くことにしたの」

「何でまた、そんな急に?」

「研究が一段落ついたらしくてね、遊びに来ないかって誘ってくれたのよ」

「そうなんだ」

父は科学者で、結婚して少ししてからイギリスへ転勤が決まり、ずっとイギリスの大学で研究を続けている。一緒に行かなかった理由はいくつかあったらしいけど、一番の理由はお腹の中に自分がいたからだと、昔、母に聞いた。サマーバケーションの時期や、誕生日などのイベント事には欠かさず帰ってきてくれた父だったが、イギリスへ母を呼ぶことはしなかった。研究が一段落した時は、日本に帰ってくるのが当たり前になっていたが、今思えば、私はその頃まだ中学生だった。

「行ってらっしゃい。家のことは私に任せてよ」

うんうんと何度も頷く母は、まるで少女のように見えた。