そして次の日、母はイギリスへ向けて出発した。

タクシーで空港へ行くからと、玄関までの見送りだった花音は、タクシーが見えなくなった後、

「私も行きたかったな。お父さんに会いたかったし……」

などと呟いてみた。

リビングへ足を踏み入れると、誰もいないことなんて何度もあったのに、急に広く感じた。

ソファーに腰掛けて背中を預けると、何か忘れているような気がした。

「何だっけ?」

そう漏らした時に、インターホンが鳴った。

花音が玄関のドアを開けると、そこには浩が立っていた。

「花音さん、良かった。もう帰ってたんですね。……よかった」

最後の方はよく聞こえなかったが、目の前に箱を差し出され、「何ですか?」

「いや、昨日伺うはずたったのに、結局会えなかったので、お詫びにケーキを焼いたんだ。一緒に食べようかと……ダメ?」

子犬のように首を傾けて覗き込む姿に、思わず顔を背けて、

「べ、別にいいけど……」

「本当! じゃあ決まり。お邪魔します」

花音が玄関の中へ招くように、体をどけると、浩は玄関で靴を脱ぎ、リビングへ入っていく。

迷いなくリビングへ向かう背中を見て、

「ちょっと待って!」

「何?」

「何で私が今日出かけることを知ってたの?」

正確には玄関で見送ったから、出かけたわけではなかったが、母がタクシーを使うと言わなければ、花音は母を空港まで送る予定だった。

浩は臆することなく、

「花音さんの事は聞かなくてもわかるよ」

と、微笑んだ。

その言葉に、花音は背筋が凍るような感覚を覚えた。

「そんな……そんなの変だよ! 何でわかるの? 何で知ってるの? 私はあなたが言うまで名前も知らなかったのに! あなたは一体、何者なの?」

取り乱して声が大きくなるのを抑えられない。怖い。この人は一体何者なんだろう。

「ごめん。今は、話せない」

浩の言葉に苛立ちさえ感じる。

「だけど、その時が来たら必ず話す。約束する」

その声が苦しそうに聞こえても、自分のことをここまで知られていて納得できるわけがない。

「怖がらせたいわけじゃないんだ。本当に、ごめん」

「……本当に?」

「あぁ。絶対に話す」

「でも、今は駄目なの?」

「……ごめん」

浩が言いながら目を伏せる。

少し間を置いて、心を落ち着けることができた花音は、一つ息をついた後、

「わかったわ。……でも、できるだけ早く話して」

と、願望を添えた。

「もちろん」

と返してくれた浩を信じることにした花音は、再びリビングへ戻ると紅茶を入れてダイニングテーブルへ置いた。

浩はその姿を立ったまま見つめていた。その視線に、見守られているようなくすぐったい感じがして、花音は居心地が悪かった。

「ほ、ほら、いつまでも立ってないでここに座って。せっかく持ってきてくれたケーキですもの、食べましょうよ」

花音が椅子を引くと、浩は微笑んで頷いた。

それから、二人はお互いのことを話した。ただし、あの話には触れないように……。趣味とか特技とか、そういった他愛も無い話を続けた。

気が付くと、もう外が暗くなっていた。

「じゃぁ、そろそろ帰るよ」

何度か紅茶を淹れなおし、飲み干したところで、浩は言った。

「あ、うん。ケーキご馳走様でした。とても美味しかった」

「ありがとう。また何か作ったらおすそ分けしに来ても?」

「もちろん!」

もうだいぶ和んでいた。

それじゃ、と言いながら、浩は家を出て行く。ドアが閉まるのを見届けてから、そっとドアのカギのつまみをひねると、そのままドアに額をつけた。

ひやりとした質感を額で感じると、小さくため息が出た。

「よし、片付けてお風呂入ろう」

食器を洗ってからお風呂の準備、他にもやることはたくさんあって、普段、母がこんなことを毎日繰り返してくれていたことに感謝が湧く。

お風呂から上がって、パジャマに着替えた花音は、一日を振り返る。

(——お母さんを見送って、沖田君と一緒にケーキを食べて、普段やらない家のことをやって……なんかすごい日だったな)

「はあ、疲れた……」

花音は、そう言ってソファーに横たわり、テーブルに手を伸ばすとテレビのリモコンを掴んだ。いつもは見ないドラマも暇つぶしにはいいものだ。

テレビ画面をうとうとしながら眺めていると、インターホンが鳴った。夜、十一時過ぎの来客……。

「こんな時間に誰なのよ。はーい、どちらさ……——薫?」

玄関の前に、薫が泣きながら立っていた。

「どうしたの! 何があったの?」

急いでドアを開け、部屋に連れて行っても、薫は花音の肩に顔を埋めながら泣いた。しばらく背中をぽんぽんと叩きながら慰める。何があったかはわからないが、今は落ち着かせる方が重要だ。

「ごめんね、花音。急に来ちゃって……」

しばらくして、薫が鼻をすすりながら謝った。

「そんなのいいよ。それより、何かあったの?」

花音は、部屋の布団に薫を座らせると、横に自分も座り顔を覗きこんだ。

薫は、なさけなさそうに笑って、「実はね……逃げてきたの」

と、言った。

「何から?」

「いろんなものから……」

「そっか。——うん。いくらでも聞いてあげるから話してごらん。その為にきたんでしょ」

花音がそっと肩を抱くと、薫は黙って頷き、ぽつりぽつりと話を始めた。

薫の話によると、薫の父親に転勤が決まり、母と一悶着あったらしく、薫もその転勤について行かなくてはならなくなってしまったとの事だった。

「私は行きたくないの。でも、あの家も人手に渡るから、住む場所も無くて……。バイトしてでもって話をしたんだけど、全然話し合いにならなくて。ついて行くしかないのかな……」

目に涙を滲ませながら、薫は言った。行きたくても行けなかった花音の母とは逆。行きたくないのに行かなくてはならない。形は違っても、抑圧される気持ちは同じだろう。

「転勤先ってどこなの?」

花音は一案思いついたが、遠い場所なら薫を一人残す親の気持ちも考えなければと思った。

「オーストラリアなの。動物の医学会で、お父さんが医学研究の発表をして、そのまま向こうでお仕事に入るって……」

「薫のお父さんって、獣医だっけ」

「うん」

「薫だけこっちに残れないの? ここに一緒に住んでも構わないわよ?」

花音があっさり言う。

薫は藁をも掴む思いで顔を上げたが、すぐに伏せてしまった。

「気持ちは嬉しいけど、花音のお母さんに迷惑がかかるわ……」

「心配には及ばないわよ。お母さん、今イギリスなの」

花音がドヤ顔で笑うと、薫は、

「イ、イギリス?」

と、大きな声を出した。

「もうついてる頃だと思うから、電話してあげるよ。あと、薫も家、飛び出して来たんでしょ?」

「うん」

「だったら、薫の両親にもちゃんと話そうよ」

花音は、そう言うと、立ち上がって薫の腕を掴んで立たせた。

「花音……ありがと」

そう言って、薫は微笑んだ。

「どういたしまして。さあ、電話してみよう」

電話を掴んで、最初に薫の家に電話を掛け、その後にイギリスの母へ電話をかけた。

薫の両親は、花音も一緒ならということで、しぶしぶではあるものの承諾してくれた。

花音の両親も、一人より二人の方が安心だと言ってくれた。世の中、やってみるものだ。

「よかったね、薫。これからは同じ屋根の下、よろしくお願いします」

花音は丁寧に言うと、手を差し出した。

薫もその手を握り返して、「こちらこそよろしく」

と、微笑んだ。それから、花音たちは仲良く一緒の布団の中に潜り込んだ。

「おやすみ」

お互いに言うと、並んで眠った。