次の日、朝ごはんはじゃんけんで負けた薫が作って、花音はテーブルのセッティングをしながらニュース番組を見ていた。

『次のニュースです。
昨夜、小滝町で起きた事件についてですが、被害者の女性の首筋には、何かに噛まれた後が残っていることから、犯人の何らかの証拠になるとみて、捜査を続けています——』

テレビから聞こえてくる声に、花音たちは手を止めた。

「首筋に……って、何かこの前の花音の話があるから、一瞬ドキッとしちゃったよ」

薫はそう言って、再びフライパンに視線を落とした。フライパンの上では、目玉焼きが二つ、ベーコンと一緒に焼かれている。

「あ、そうだ。新聞取ってくるね」

食後のお茶をテーブルに置いたところで、花音が言った。外に出ると、隣の家から浩が出てきた。

「沖田君」

花音は思わず声を掛けてしまった。

「花音さん、昨日はどうでした?」

「え?」

「昨日、薫さんが来ていたでしょう? 同居にご両親は了承してくれた?」

浩の言葉に、花音は、

「ほ……本当になんでも知ってるのね。これから何処かにお出かけ?」

「ああ、ちょっと仕事にね。明日あるライヴのカメラマンをするんだ」

「カ、カメラマン! そうだったんだ。てっきりまだ学生なのかと思っちゃった」

花音が、口に手をあてて言うと、浩は笑って、

「僕ってそんなに若く見える? 一応、こう見えても二十四歳だよ」

と、言った。そう言えば、昨日は肝心な基本情報を聞いていなかった気がする。

「ごめんなさい。私っては、ずっとタメ口を……」

「やだなー。上司とかじゃないんですから、敬語なんて使わなくて良いんですよ。僕は花音さんが普通に話して笑ってくれる姿が好きですよ」

と、浩は笑った。

「えっ?」

花音が驚いていると、家の前をタクシーが通る。浩はそのタクシーに手を上げて合図を送ると、

「それじゃあ」

と言って、タクシーに乗り込み去っていった。

(——な……何なのよ、あれは!)

自分の頬の熱を手で抑え、「わ、忘れよ……」

と、新聞を取ってリビングに戻った。

「ねえ、花音。今の人誰?」

と、薫が聞いた。

「あの人なの。この前話してた男の子……っていうより男性だった」

花音がそう言うと、

「その割りには、すごく親しげだったけど?」

と、薫は電話で話しを聞いた時と、状況が違うことに疑問を抱いた。

「お隣に引っ越してきたのよ、一昨日」

花音は続けて、「でもね、私は彼が言うまで、名前も知らなかったのに、あの人は、引っ越してくる前から私のことを知っていた」

「その人の名前は?」

「沖田浩」

「沖田浩……。うーん。確かに聞いたことない名前ね」

「何で知ってるか聞かなかったの?」

薫の問いかけに、

「い、今は言えないって。早めに話してくれるとは……言ってたけど……」

と、花音はぎこちなく返した。薫の次に出てくる言葉が予想できていたからだ。

「はあ? 何それ! それじゃあ、知っている理由をが分からないまま、それまで気持ち悪い生活を送れって言うの?」

予想通りの返答に、花音は苦笑した。

「でも、いつかは話してくれるわけだし。昨日話したけど、悪い人じゃないと思うわよ」

「花音は警戒心がなさ過ぎるのよ。いい、よく聞くのよ花音——」

薫はこの言葉の後、五分以上話していた。盗聴器があるとか、どこかカメラが仕掛けられているとか。

花音は、薫の話しを聞いた上で、

「それでも、誰にだって話し難い事はあるわよ。私は話してくれるのを待つわ」

と、浩を信じて待つことにした。

「花音がそれで良いなら、私は何も言わないけど……。本当に、何かあった時は言ってね」

薫は、花音を心配に思っていた。

薫にしてみれば、花音は誰よりも大切な友達。そして、また花音にとっても薫は誰よりも大切な友達だから。

「ありがと」

花音は笑顔で返した。

「そう言えば聞いてなかったわよね。薫の両親が引っ越すのっていつ?」

新聞をテーブルの上に置いて、花音が聞いた。

「今週末だよ。——あ、そうか! 私の荷物もこっちに持ってこないといけないんだ」

「じゃあ今日、薫の家に行って、荷物整理と簡単なものだけでも持ってきちゃおう。あと三日しかないもんね」

花音たちは、今日の予定が決まったので、直ぐに出かける準備をした。

細い路地を抜けて左に曲がれば、メインストリートに出る花音の家から、薫の家までは、歩いても十分程度しかかからない。引越し業者に頼むには勿体無い距離だ。そんな短い距離で、知り合いに合うなんて事はほとんどないのに、偶然にも甲斐に会った。

「よっ! 三日ぶり?」

「あ、甲斐君。おはよう」

花音が言うと、薫が何か思いついたらしく、

「甲斐君。今日暇してる?」

と、聞いた。

「今日? 特別な用事は無いけど?」

「じゃあ、手伝ってくれる? 引越し」

「え……引越し? 誰が?」

甲斐が驚いて目を丸くした。

「薫よ。私の家に引っ越すの。両親が転勤で海外に行っちゃうから、薫だけ日本に残るためにね」

花音が答えると、甲斐は、

「あ、そうなんだ」

と、一瞬ほっとした顔を見せた。そして、薫はそれを見逃さなかった。

(——もしかして、甲斐君は花音の事……)

薫は、花音と甲斐を見つめていた。

(何だろう。この気持ちは……)

胸が苦しくなる様な、そんな気持ちを薫は覚えた。

「——よね、薫」

薫は、自分の気持ちを考えるだけで、話しを聞いていなかった。

「もう、聞いてなかったの?」

「えへへ。ごめんごめん」

「どれからやるの?」

と、辺りを見回した。もう、薫の部屋まで来ていたのだ。

「あ……う、うん。じゃあ、本から片付けて、小物類だけは今日持って行っちゃおうかな」

薫は我に返って、花音と甲斐に言った。

「よっしゃ、それじゃあ始めますか」

甲斐が腕まくりをして、背の高い本棚に手を伸ばした。それを合図に、花音も用意されていたダンボールを手にとって組み立て始め、引越しの準備が始まった。

それから、二時間ほどで薫の荷物を片付けて、花音の家まで荷物を持ってきた。運よく、甲斐を引き入れていたおかげで、トラックを出してもらうこともでき、引越しは女の子が二人でやるより、だいぶ早く終わった。

「疲れた!」

三人とも、へなへなと床に座り込んで、声をそろえた。

ちょっと休憩しようという提案に、リビングへ移動し、花音は二人に麦茶を渡した。

「助かるー!」

甲斐は麦茶に口をつけて、一気に飲み干した。

ちょうどお昼頃だったせいか、部屋中が蒸し暑くてしょうがない。窓を開けても、わずかな風では意味もなく、首にフェイスタオルをかけていた。

やっと終わって、後は片付けだけ。残りは花音と薫だけでもできるからと、切り上げることにした。

「甲斐君、ありがとう。本当に助かったわ」

薫がばてた様子で言った。

「お礼と言っては何だけど、お夕飯、一緒に食べていかない?」

「いいの? 俺もう腹が減って穴が開きそうだぜ」

薫の言葉に、甲斐はそう言って腹を押さえた。

しかし、甲斐はその後、直ぐに立ち上がり、

「でも今日は、ごめんね。気持ちだけ受け取っておくよ」

「何で?」

「今日、母さんの誕生日なんだ」

と、照れた様子で頭を掻いた。

「うふふ。優しいね」

花音が微笑むと、薫は慌ただしく立ち上がり、

「お母さんの誕生日なのに、友達の引越し手伝わせるとか、知らなかったとはいえごめん!」

と、ひどく申し分けなさそうだった。

「いや、大丈夫だよ」

「よくない! 早く帰りなさいよ!」

薫の慌てっぷりに驚いた花音と甲斐は、顔を見合わせてから笑った。

「途中まで送るわ。薫も行こう?」

「あ、ごめん。私、ちょっと先に片付けたいものがあるから、花音にお願いしてもいい? 甲斐君、本当にありがとう」

花音が薫を誘うと、薫はそそくさと、途中だった作業をしに、部屋へ向かった。

花音が、わかった。という返事を背中で聞いて、耳に、二人が家を出て行くのを聞いた。

「何でだろう……。胸が苦しい——」

花音と甲斐が、顔を見合わせて笑い合う姿に、薫は胸が苦しくなった。