Ⅱ・二度目の君と桜の丘 ―誓い―

次の日、翔は早く紗桜に会いたくてうずうずしていた。でも、こんな調子で遊んでしまえば、春休み中の新学期用に渡された課題が終わらなくなってしまうのは、目に見えていた。翔は焦る気持ちを抑えて午前中を使い込み、課題を片付けた。

午後、翔は家を飛び出した。今日の空は、綺麗な濃い空色だった。まるで夏みたいに。

息を切らしながら紗桜のところまで走る。息が上がっているはずなのに、わくわくした。

——早く会いたい。

しかし、翔が桜の木に着くと、紗桜の姿は見えなかった。

「あれ? 上かな」

翔は木に登ると、桜の花に包まれて眠っている紗桜を見つけた。

白い肌の頬が薄ピンクに染まる。そのすぐ上に伏せられた長い睫毛の目。綺麗な長い髪がそよ風の影響を受けてゆらゆらと揺れる。目が離せなかった。翔は起こさないようにゆっくりと横に座ると、少し近くなった空を見上げる。柔らかい風が、気持ちよく頬を撫でた。

「——……。翔……」

気が付くと、翔は眠ってしまっていた。紗桜に起こされたのは、ここに来てから二時間ほど経った、桜の花弁が一枚、この木から舞い落ちていった時だった。

「ん……紗桜。ごめん、俺、寝てた?」

「うん。私こそごめんね。せっかく来てくれたのに、気付かないで寝てて。起こしてくれればよかったのに」

紗桜は少し照れながら、申し訳なさそうに言った。

翔は、「ううん。だって、ここで寝るの、すげぇ気持ちよさそうに見えたから。実際、気持ちよかったし」

と、笑う。

「うん。気持ちいいよね」

紗桜は、微笑んだ後にそう言った。

「——あの……!」

紗桜が少し間を置いて、翔に話しかけた。

「何?」

と、翔は何気なく返す。

そして、その瞬間、穏やかな風が吹いた。

「好き——」

紗桜は、確かに翔の耳元で、そう囁いた。

「好きよ。まだ、昨日会ったばかりだけど……」

翔は、何を言われたのか理解できず、一瞬言葉に詰まった。頭の中で何度も言葉を繰り返す。意味が理解できてくると、今度は鼓動が痛いくらいに速くなる。

「お、俺も……俺も好きだ! うっわ……すっげ、嬉しい……」

翔は、力いっぱい紗桜を抱きしめ、紗桜の肩越しで満面の笑みを浮かべた。

——俺たちは恋人同士になった。
   まだ、この先に何があるのかなんて、考えもしなかった……。

春の陽射しの中、紗桜は一つの桜の花を手に取った。

「ねぇ、翔はこんな話を聞いたことがある?」

と、花を見つめながら、紗桜は話し始めた。

「昔々、私の翔のように人間と妖精が恋に落ちたの。だけど、その妖精は自分の花の花弁が散ってしまうと姿が消えてしまって、もうその恋人に出会うことはなかったんだって」

紗桜は勢いよく振り向いた。

「私もそうなのかな! 翔に……会えなくなっちゃうのかな——」

紗桜の話に、翔は、「そんなことないよ。昔の話だろ?」

と、確かでもないことを自信たっぷりの様子で言い返した。そうしないと、自分も不安になってしまいそうだった。

「そうだよね。昔の話だし、神話みたいなものだわ。大丈夫」

紗桜も自分に言い聞かせるように頷いた。

「——紗桜! おまえ、何やってるんだ!」

急に、木の上にいるはずの翔たちよりさらに上から、翔の聞いた事のない声が聞こえた。

春妃(はるひ)! 何でこんなところにいるの?」

紗桜の知り合いのようだった。驚いている紗桜をよそに、声の主は苛立ちを見せていた。

背中の翼を動かして、空中に浮いている男を見て、紗桜と同じ妖精の仲間であることを悟る。

「同じ妖精の仲間?」

と、翔は二人の間に割って入った。

紗桜は、「ええ、そうよ」

と言うと、「妖精には階級があるの。私は桜の花の妖精だから、そんなに高い身分じゃないんだ。だから自分の木から離れることができないのよ。でも、春妃は春の光の階級にあたるから、身分が高いし、晴れている日には自由に動き回れるの」

と、羨ましそうに教えてくれた。

「ふーん。そんなに凄い奴なんだ」

翔は面白くなくなってしまった。

「紗桜、何でそいつと一緒にいるんだ?」

面白くないのは春妃も同じようだった。

紗桜は、少し恥ずかしそうに肩をすくめて、「つ、付き合ってるの。今日からなんだけどね」

と、顔を赤らめた。

春妃は驚いて、「嘘だろ? そいつも妖精なのか?」

と、紗桜と並ぶ翼のない翔をにらみつけた。

「俺はただの人間だよ。妖精じゃない」

翔がそう返すと、春妃が笑い出した。

「ばかげてる! 人間と妖精が恋に落ちるなんて、そんなの不可能だ。冗談はやめろよ」

と、翔と紗桜に言った。

「冗談なんかじゃないわ。私は翔の事が本当に好きよ」

と、翔の袖を掴んだ紗桜が幸せそうに言った。

——そして、この時に俺たちはお互いの運命の道筋を知った。

春妃は、紗桜の言葉に関係なく、余裕を見せた。

「どんなに好きでも、無理なことはある」

「どういう事?」

紗桜は、春妃の余裕が怖くなった。

「紗桜は知ってるはずだろ。この桜の花弁が散ってしまえば、自分だってこの場所にいられなくなることを……」

「ただの迷信じゃないの?」

「迷信じゃない。俺の母さんの友人に実際いたそうだよ」

そう言った春妃に、紗桜は言葉を失った。

「嘘……」

搾り出したような声だった。吐き出された息の終わりがかすかに震えて、やがて頬に涙が伝う。ほんの一瞬のことだった。

「まあ作り話であっても、無理な話だ」

春妃がふんっと鼻を鳴らす。

——バキッ……!

我慢が出来なかった。きっとこいつは紗桜が好きだ。それはわかった。でも何故、好きな女の泣く姿を自分のせいで見ていることに気付かない?

話しながら木の枝に立った春妃を、翔は力いっぱい殴った。体勢を崩して、そのまま地面に二人の体が落ちる。呻く春妃にまたがって、胸倉を掴んだ。

「おまえ、言い方を考えろ! おまえの好きな紗桜が俺を好きになったからって、八つ当たりするな!」

「紗桜は……紗桜は僕にとって何よりも大切な人だ! それをいきなり出てきたおまえなんかに——!」

春妃が力任せに翔を跳ね除け、馬乗りになって殴りかかる。

「やめてっ!」

木の上から下りてきた紗桜が叫ぶ。その声を無視して、春妃の拳は翔の左頬にあたる。

「……」

「なんだよ、なんでやめんだよ!」

「俺の気持ちは変わらない。おまえの気持ちもそうだろう? だから、コレに意味がない。でも、紗桜が泣くのはダメだ」

まっすぐ春妃の目を見据える。

春妃の眉間に益々力がこもる。紗桜を横目で見ると、胸の前で腕を組み、心配そうに見つめていた。

「……くそっ!」

と、吐き捨てて、翼を羽ばたかせて飛んで行ってしまった。

はぁ……と息をつき、体を起こすと、木の幹にもたれて座った。紗桜が目の前に膝をつく。

「大丈夫? 殴られたところ……」

腕を伸ばし、そっと翔の頬に指先を置いた。

「いっ——!」

「あ、ご、ごめんね。痛かった?」

スッと手を引いて、顔を覗かせた。

「大丈夫、大丈夫」

翔は片方の手で紗桜の手を握り、もう片方で涙を拭った。それから翔は何も言わず、ただ見つめて微笑んだ。紗桜も、それに応えるようにただ見つめ返した。そして、しばらく見つめ合ったまま短い時を刻んだ。触れ合う手からお互いの気持ちが溢れて、どうにも止まらない想いで、少しずつ…少しずつ、お互いの顔が近づいて、胸の高鳴りが伝わりそうな中で、二人はゆっくりと目を閉じた。

——俺は君と永遠の愛を誓い、約束をした。

日が傾いて、陽射しは濃いオレンジ色の空を作っていた。この頃から、二人の気持ちは少しずつ変わっていた。

——いつか来てしまう別れ。だけど……それでも今は、このままでいたい。

そして、今日の別れの時、紗桜はぎこちなく笑って、

「また、明日ね」

と、言った。翔はその笑顔に胸が詰まり、

「そんな顔をしないで」

と、紗桜を抱きしめた。

「一緒にいられる時間は限られているのかもしれない。でも、これだけは約束してほしいんだ。いつか、その日がくるまで……いや、その日が来ても、決して泣かないと……約束しないか?」

そう言った翔は、「俺は、その中で紗桜の事を誰よりも愛したい。そして、紗桜がいなくなってしまう時が来ても、俺の中で笑っていてほしい。——別れを……辛い事だなんて思いたくないから……」

と、抱きしめる腕に力を込めた。

その腕の中で翔の言葉を聞いた紗桜は、

「翔って強いね。私はダメ。別れが辛くないなんて思えないよ。……寂しくて、悲しくて……」

と、泣き出しそうな声を出した。

「俺は強くなんかないよ、きっと。でも、二人でいるときだけでいい。辛いときは辛いと言ってくれてもいい。それでも、泣かないでいて欲しい。——俺の姿を、見ていて欲しい」

翔は、まっすぐに真剣な眼差しを向けた。

紗桜は、「——うん」

と、頷いて、桜の花を見上げた。

翔は、手を広げて前にだし、「約束のしるしだ」

と、紗桜の手を取った。二人の掌を合わせ、指を絡めて握り、約束を言い合った。

——決して、涙など見せない。

そして、翔は二日目の夜に紗桜と別れを告げた。