Ⅳ・嵐 ―BELIEVE―

「——! 翔君! ねえ、ちょっと聞いてるの?」

「え?」

翔が振り返ると、千夏が翔の腕を引っ張っていた。

「紗桜って誰なの?」

千夏は少し怒り口調で聞いた。

翔は、少し照れた様子で、「俺の彼女なんだ。紗桜は……」

と、言った。

そして、その後すぐにハッとして、

「ごめん、千夏。俺、ちょっと出かけてくるから、部屋にいて」

と言って、部屋を飛び出した。

「ちょっと! 翔君!」

部屋に残された千夏はベッドに腰を下ろし、「冗談じゃないわ。せっかく引っ越してきたのに、戻ってきたら彼女がいるなんて……」

と呟くと、翔の後をつけて出て行った。

一番初めに紗桜の所に着いたのは春妃だった。

「紗桜!」

春妃は、大スクープと言わんばかりに紗桜を呼んだ。

「春妃。どうしたの? こんな遅くに」

寝ようとしていたのか、目を擦りながら体を起こした紗桜に、

「大ニュースだ! あいつには恋人がいたんだ!」

春妃がそう言うと、

「んー? あいつ?」

「ほら、お前が今日から付き合ってるって言ってた奴だよ!」

「翔のことぉ? 何言ってるの?」

紗桜は眠たかったせいもあるだろうが、うつらうつらと答える。

「だから、その翔って奴には恋人がいたんだって言ってんだよ!」

春妃の声を反芻していくと、だんだん言葉の意味が浮き彫りになってきた。

「今、なんて言ったの?」

紗桜の顔が一気に険しくなった。

「だから、翔って奴には紗桜以外にも女がいるんだって!」

春妃は紗桜の前で目線を合わせると、「これが、あいつの本当の姿なんだよ。分かっただろ?」

と言った。

そして、何も言い返さなかった紗桜の肩を掴んで、

「だから、あいつとは別れろ。その方が、紗桜にとっても良いことだ。わざわざ辛い思いをしてまで——」

「やめて!」

春妃の手を振りほどいて、紗桜が遮った。

「どうしてそんな事言うの? 私は翔が好きなの。たとえ、翔が他の子と付き合っていたとしてもいい。私が好きなのは、翔だけなんだからっ!」

桜の丘に、紗桜の声が響いた。気持ちを隠せないその声は、走ってきた翔の元にも届いた。

「紗桜!」

「翔!」

走ってくる翔に向かって紗桜も走り出す。抱きとめる翔の荒い息遣いの中、紗桜は泣きじゃくった。

「お前、紗桜に何をしたんだ!」

「俺が見たままを話しただけだよ。お前と、そこにいる女の事を」

翔の怒鳴る声に、春妃は肩越しに視線を送りながら淡々と言い放った。翔が振り返ると、そこには息を整えている千夏の姿があった。

「千夏! お前、家にいろって言っただろ」

「ごめんなさい! だけど、どうしても気になったの! 紗桜っていう人が、翔君とどういう関係なのか」

千夏はそう言って、こちらに向かって歩き出した。

翔の胸元で紗桜がぐっと指に力を込めて拳を握った。

「たとえ千夏さんが翔の彼女であってもいいの。私は翔が好き。あの約束は、翔が心から言ってくれたものだって信じてる……」

紗桜の心細さを精一杯に隠した声に、翔は力強く抱きしめる。

「千夏……やっぱりお前は帰ってくれ。紗桜は俺にとってとても大切な人なんだ。本当は紹介して仲良くして欲しいんだけどな。今のお前は、そういうんじゃない気がする。だから、ごめん」

背後で足を止めた千夏は、背中を向けたままの翔をにらむ。「なによそれ……」

「……ごめん」

翔は、もう一度背中を向けたまま謝った。その後、視線を上げて、目の前に立つ春妃を冷たく見据える。

「翔君、変わったね。八年前に比べて随分とひどい扱いをするのね」

千夏が一瞬泣きそうな声になる。

「でもね、私だってずっと好きだった! 翔君がその女に出会うもっと前から! 引越しが決まるずっと前から翔君だけが好きだったの!」

言い切ったところでいよいよ涙が溢れた。

強い風が四人の間を吹き抜ける。その後で、桜の花弁がまた何枚か風の残り香のように舞った。

「千夏……。ごめんな」

翔は、千夏の方へ向き直ってから言った。隣に立つ紗桜の肩にはまだ手が置かれたままだ。

「どうして? 彼女のどこが良いの?」

千夏は問う。

「え?」

「紗桜さんのどこが好きなの? 私はそれを超える事ができたら、翔君に好きになってもらえるの?」

必死な姿の千夏に、翔は優しく笑む。

「それはないよ」

「なんで?」

「なんでって言われても困るけどさ。……俺、紗桜のどこが好きかわからないんだ」

「わからない?」

「ただ、とてつもなく惹かれてる。側にいてあげたいし、いて欲しい。他の理由なんてないんだよ」

こんなにも柔らかく笑う翔を前に、千夏は言葉がでなくなった。

「千夏……」

翔が近づこうとすると、千夏は我に返ったように後ずさった。

「……ない。認めない! 絶対に認めないんだから!」

千夏は言い捨てると、丘を駆け下りて行った。

「千夏さん!」

紗桜は千夏の後を追いかけようと走り出す。

すると、紗桜の体が急に光りに包まれて、元の位置まで戻されてしまった。翔は振り向くと、春妃の立てた指先が同じ光りを放っていた。

「紗桜、お前はこの木の守護精だ。掟を破ればどうなるか、知らないことはないよな」

「でもっ!」

紗桜は強く唇をかむ。そして、

「翔! 千夏さんを追いかけてあげて!」

「紗桜?」

「もし私が千夏さんの立場だったら、絶対に認めないんだと思う。だから放っておけないの。私は千夏さんがいつか認めてくれるって信じたい! だからっ!」

——この時、君の笑顔が何故か、悲しい気持ちを隠しているように見えたのは、俺の見間違いだったのだろうか? それとも、ただの俺の願望だったのだろうか……。

「……わかった」

翔は、紗桜に頷いて見せ、千夏が去った方へ走りだした。

その背中を、紗桜は見えなくなるまでずっと見送った。