Ⅵ・NEGOTIATION

気が付くと、朝になっていた。

翔はカーテンの隙間から差し込む一筋の陽射しに手を差し込んだ。光が当たった途端、そこからじわじわと暖かさを感じる。

「うぅ、眩しい……」

眠い目を擦って、翔は椅子から立ち上がる。部屋には一晩中書いては投げ出した紙くずが、あちこちに行き場をなくして床に転がっていた。

部屋を出た翔は、シャワーを浴びて眠気を覚まし、それから裕香へ電話をかけることにした。

「あ、翔君! おはよう」

いつものように明るい裕香の声が聞こえる。

「どうしたの? ひょっとして新しいドラムが見つかった?」

何も知らない裕香に突きつける真実言葉に、翔は後味の悪さを予感した。

「いや、そうじゃないんだ」

「なーんだ」

「ただ、バンドについて一度みんなで集まって話がしたいんだ。時間、作れないかな……」

翔の声色に、裕香も察したようだった。

「何? まさか翔君も抜けるなんて言わないよね?」

「……」

翔は何も返す言葉が見つからなかった。怒る裕香を相手に、翔はとにかく集まろうとだけ話すと電話を切った。もう話し合いのつもりもなかったのだから、はっきりバンドを抜けるつもりだと話しても良かったのかもしれない。だけど、それを電話で伝えてしまうのは、なんだかいけない気がした。どんな形であれ、一緒にやってきた仲間だ。少なくとも、翔はそう感じていた。だからこそ、面と向かって話をするべきだと考えていた。

朝食を食べ始めたところで、携帯が鳴った。昨晩に続いてトシからだった。

「トシ、どうした?」

「翔、大変なことになりそうだ」

「え?」

「今、ニュース見てるか? 天気予報見てみろ」

言われるがままに、チャンネルを変える。

『——現在、雨雲は日本の南西からゆっくりと勢いを増しながら北上しており、明日の夕方頃から雨模様となり、夜には大雨となるでしょう。また、この雨雲は非常に大きく、週明け頃まで続く見込みです——』

気象予報士の言葉に、一瞬、耳を疑った。——大雨? 週明けまで? 週明けまでってことは、少なくとも三日はある。

「マジか……」

翔が状況を把握したところで、トシは、

「一度その子に会わせてくれないか? 早くイメージをつかみたい」

と、提案をしてきた。曲を聞かせたいという昨日の翔の話で、もともとバンドの曲を二人で作っていたこともあり、今回も例外なくそのつもりだった。

「わかった。今日行けるか?」

「ああ。じゃあ、お前の家まで行くよ」

「わかった。じゃあ後で」

そう言うと、翔は電話を切った。食べかけの朝食を胃に押し込み、急いで仕度を始める。トシの家からここまでそう遠くはない。翔のバンドがそもそも結成したきっかけが、高校の入学式で地元話で盛り上がったことだった。

インターホンが鳴り響く。靴下を片方履いたときだった。慌ててもう片方を履きながら、携帯電話を二つ、鞄に押し込んだ。バンド用とプライベート用で二つ持っていたが、最近はバンドが休止状態だったために一つしか持ち歩いていなかったものだった。

家を出た翔とトシは、桜の丘へ向かった。普段は木の上にいる紗桜の姿が、今日は木の根元に見えた。

「紗桜ー!」

姿を見つけて大きく手を振る。足元の草を靴底でふよふよといじりながら遊んでいた紗桜は、声に視線を上げた。

「おはよう! 待ってたの! 一つ……その、お願いがあって……。——あの、お友達ですか?」

紗桜は話の途中で翔の隣の男と目が合うと、軽く会釈をした。

翔は、「紹介するよ」

と、トシの肩に手を置いて、

「片瀬敏哉。俺が前に話したバンドの仲間なんだ」

「片瀬です。トシって呼ばれてるから、よかったら君もそう呼んで」

静かに、親しみを込めていうトシに、紗桜も安心したようだった。

「あ、紗桜です。トシさん、よろしく」

一通りの挨拶が済んだところで、「さっきの『お願い』って?」

と、翔が話しを戻した。

紗桜は、思い出したと手を打って、

「そうなの! 私、翔の作った曲を聴いてみたいなと思って……ダメかな?」

と、言った。紗桜のお願いに、二人は顔を見合わせて笑い出した。

「いいタイミング!」

「ああ、まったくだ!」

そんなことを言い合っている二人に、「何が?」

と、紗桜がついて行けず聞いた。

「俺が今日、トシを連れてきたのは、実は俺も頼みがあったからなんだ」

「頼み?」

「そう。紗桜のために、紗桜だけの歌を作りたいんだ。紗桜とは少しでも長く一緒にいたい。だけど、紗桜のことを思って曲を作りたい。そして聞いてほしい。だから、会いに来ても少ししかいられないかもしれない。それでも、待っていてくれるか?」

翔の言葉に、紗桜の表情が一瞬曇る。

「——うん。仕方ないものね。私は翔の歌、聞きたい」

寂しいけど聞きたい。会いたいけど、聞けなくなってしまうかもしれない。そんな思いだったのだろう。紗桜は唇に力を入れ、そう言うと、複雑に笑みを浮かべた。

「紗桜」

翔は鞄に手を突っ込んで何かを探すと、紗桜の前に差し出した。

「何? これ」

紗桜は見たこともない二つ折りの携帯電話を見て、「これを……くれるの?」

と、差し出した手に乗せられた物体をみじまじと眺めた。

「携帯電話っていうんだ。これがあれば、側にいなくても話せる。それから……」

と、翔はさらにソーラー充電式のバッテリーを渡す。

「これは充電器。この黒い部分に昼間、太陽の光りをあてておいて。携帯のこのマークが赤くなったら、この穴にこっちの線を繋げば充電できるから。それから、ここのボタンを押したら、俺のこっちの携帯につながるから、いつでもかけていいし、俺もかける」

そう言いながら携帯電話の使い方を教えた。

それからはトシも加わって、いろんな話をした。

紗桜が携帯を受け取った日の朝、春妃は一睡も出来ずに、草原で寝転がっていた。

『——俺の気持ちは変わらない。おまえの気持ちもそうだろう? だから、コレに意味がない。でも、紗桜が泣くのはダメだ』

最初に翔と鉢合わせをしたときに言われた言葉を思い出す。

『——私が好きなのは、翔だけなんだからっ!』

あの日、紗桜を傷つけた時の記憶がよみがえる。

とたんに、春妃は体を起こして頭を左右にブンブンと振った。

「くそっ! 俺、どうしちまったんだろう。——こんなこと考えるなんて」

乱れた髪を整えもせず、ため息をついた。

春妃は千夏を探した。どこにいるのかもわからず、やっと見つけたときには、もう夕方だった。千夏はコンビニの袋を手に下げて歩いていた。

「あなたは、確か……」

千夏の眉間に皺がよった。春妃も眉間に皺がよっていた。難しい顔をしたままの二人の間に静寂が流れた。

「……何か用?」

先に口を開いたのは千夏だった。

「紗桜のこと何だけど……」

一瞬、千夏の顔が不機嫌になる。

「どこまで知ってるのかな?」

春妃は気まずそうに最後まで言う。

「翔君の彼女だって事くらいよ。何が言いたいの? まさか不治の病でどうしようもないから最後くらい好きにさせてやってくれとか言うんじゃないでしょうね」

千夏はありえないとでも言いたげだ。

「……何も知らないからそんな事が言えるんだよな」

「は?」

「じゃあ、君に話しておきたいことがある。黙って、最後まで聞いてくれ」

春妃は真っ直ぐに千夏の目を見た。傷ついたような、悲しいような、痛いような、恐ろしいような……そんな眼差しだった。

「わ、わかったわよ! 聞けばいいんでしょ! 聞くわよっ!」

千夏は半ばやけくそで返した。

春妃は一息ついてから、話し始めた。

「君は知っているかどうかわからないけれど、実は、紗桜は人間じゃない。妖精だ。紗桜は、あの桜の木の守護精で、花弁がすべて落ちてしまうと、紗桜も消えていなくなる。毎年じゃない。本当に一度きりなんだ。とは言え、死んでしまうわけじゃない。この世界からいなくなるだけなんだ。それでも、もうあいつと紗桜は一生会えなくなる」

春妃は続ける。「だから、あの桜が散ってしまうまで、そっとしておいてやってくれないか? ……頼む」

そう言って、頭を下げた春妃に、千夏は問い詰めた。

「何でそんな事が言えるのよ! あなただって、紗桜さんの事が好きなんでしょ?」

「ああ、好きだよ! でも、だったらなおさら俺は、そっとしておいてやるべきだと思ったんだ」

「何で? 奪ってやろう、くらい思えないの?」

「最初は俺だってそう思ったさ! でも、そうしたところで紗桜が泣くんだ。あんたも少しくらい考えろよ。自分の好きな人が、あいつが幸せになろうとしてる。いつか、もうすぐ別れなきゃならないのに、そのことを承知で!」

春妃は、それ以上は何も言えなかった。そっとしておく事が、どんなに辛い事か、痛いほど身にしみてきたからだ。そして、その感情は千夏も黙らせた。

「そんなこと——」

千夏は羞恥心にも似た感情が湧きあがるのを感じた。知らなかったとはいえ、ひどい言葉を言ってきた。同情するわけではない。ただ単純に、千夏が紗桜に負けたと実感するには十分だった。

「——わかったわ。翔君を好きな気持ちは変えられないけど、私じゃ、紗桜さんに勝てないのね……残念だけど」

困ったような笑みを浮かべて、千夏は言った。

「ありがとう、教えてくれて。それじゃあ私は、帰るわね。さようなら……」

まだ、時々言葉の端が詰まって聞こえたのは、千夏の中で想いの置き場所が定まっていないからかもしれなかった。

「あ、ありがとう!」

春妃は、背中を向けて歩き出した千夏に、後ろから礼を言った。

千夏は何も言わなかったが、一度だけ振り向いて眉尻を下げて微笑んで去って行った。