Ⅶ・あえない日、切ない

次の日、翔はトシの家の防音室に集まった。

「やっぱり外は大雨だ。やばいな……」

そう言った翔に、「それじゃあ、さくさく始めますか」

と、トシが言い出した。

「おまえ、すごく張り切ってるな」

「だって、裕香を見返してやりたいし。それに、紗桜さんにも、ちゃんとしたの聞かせてやりたい。……翔、おまえのためにも……」

トシの言葉に、翔は背を向けて、気恥ずかしさを隠しながら―サンキュ。と言った。

——その時、部屋のドアが開いた。

「慎一郎!」

そこに立っていたのは慎一郎だった。「どうしたんだ! そんな格好で」

ベースが入っているであろうケースを上着でぐるぐる巻きにして抱えたまま、静かに口を開く。

「……俺、裕香と別れた。お前らとどっち取るんだって言われて、俺、あいつを取れなかった」

慎一郎は自分でもショックだったのか、困惑していた。大雨の中を走ってきたのか、上着も髪もずぶ濡れだった。

翔はベースを受け取り、トシは慎一郎に取りあえずシャワーを浴びるように言った。

シャワーから戻ってきた慎一郎の話をひとしきり聞いた後、翔たちも慎一郎に紗桜のことを話した。

「そうか……。俺も、一緒に演奏していいか?」

遠慮がちに慎一郎が言った。

「もちろん。慎一郎は俺たちの仲間だ。頼りにしてる」

トシが慎一郎の肩に手を置く。慎一郎は嬉しそうに笑った。

こうして曲作りの日々は幕を開けた。

「まずは、曲のイメージと詞だな……」

いつもはトシが詞を書く。そして翔とトシでラフに楽曲として起こし、みんなでアレンジを加えた。トシの言葉に、一斉に視線が翔に向く。翔も二人の顔を見て頷いた。

「今回だけは、俺に書かせてくれ」

「だな」

慎一郎もトシも快く了解を出す。

「曲のイメージは、詞が出来てからでいい。今回からは慎一郎にもしっかりメンバーとして楽曲のラフから付き合ってもらうぞ!」

「おう! まかせとけ!」

「翔、俺の部屋の机使っていいから、しっかり書いてこい」

防音室には机らしい机がないため、トシは言いながら紙とシャーペンを渡した。力強く頷いた翔は、防音室をでてトシの部屋で机に向かった。一度目を閉じて、深く深呼吸する。

——紗桜。
   君のために今、心から愛を込めて……。

翔が詞を書き終わるのに、二時間半ほどかかった。その間に、トシは慎一郎と防音室で音を合わせていた。ラフから慎一郎が入るのは初めてだった。これは慎一郎の提案だろうか。ベースの音の上に、トシのピアノが胸に痛いほどの愛しさを伝えてくる。翔に気付いた二人は、すぐに演奏の手を止めてしまったが、翔はもったいないと心底思った。

「できたのか?」

と、トシが言った。

「ああ。……見てくれるか?」

「もっちろん」

翔の言葉に、慎一郎が一番に駆け寄る。二人で翔の言葉を読みきる。

「『あなた ~桜咲く、あの丘で~』か。俺は好きだよ」

「俺も! いい曲になりそうな予感!」

トシがコピー機で人数分コピーする。

ピアノの譜面台にトシが。ベース前の譜面台には慎一郎が。そして、ギターの譜面台の前には翔が、それぞれ詞の書かれた紙を置いた。

「どんな感じの曲がいいかな」

「それは翔次第だな」

慎一郎があっさりと言う。

「曲作りのこと、初心者のハズの慎一郎に教わったな、翔」

「え?」

「おまえの気持ち次第ってことだ」

「俺の……気持ち……」

そう呟くと、「俺は、紗桜と幾つもの言葉を交わした。約束もした。——でも、俺は紗桜のために何もしてやれていない様な気がするんだ。だから、俺自身の気持ちを思って書いた」

言った途端、心に微かな闇ができた。

(この曲ができたら……紗桜、君に会えなくなる日も近い……)

翔の視線が地面を這った。少しの沈黙が、闇を増幅させる。その空気を一変させたのは、慎一郎だった。ベースの低音が、アンプを通して部屋を満たした。

「ほらほら、辛気臭い顔すんな。俺なんか、今日別れてきたんだぜ。まだ時間はある! 早く作ろう!」

慎一郎の気遣いと明るい姿に、「やっぱり俺たちのバンドには慎一郎が必要だな」

と、トシが呟いたのが聞こえた。

それからの二日間、翔たちはヴォーカルラインとコード。全体の構成を話し合い、本格的な曲作りに入った。

その間の、紗桜のところへ千夏がやってきた。

「紗桜さん……」

千夏の呼びかけに、紗桜が驚いて顔を覗かせる。

「紗桜さん、ごめんなさい。私、あなたの事情とか、まったく知らなかったの。ううん。事情とかなくても、私にはあなたを超えられないわ……」

「……千夏さん。ありがとう。私、千夏さんがいつか私たちのことを認めてくれるって信じてた。本当に、ありがとう!」

千夏の話の途中、紗桜は千夏を抱きしめて、ふわりと微笑んだ。それにつられて、千夏もゆっくりと微笑んだ。

「初めて見たわ。千夏さんの笑顔。……うふふ。嬉しい……」

紗桜の言葉に、千夏は、「こんな人が相手じゃ、私が負けて当然だわ……」

「え?」

「良いこと教えてあげるわ。翔君ね、あの後私を追いかけてきて、あなたとの事、ゆっくりでもいいからわかって欲しいって頭を下げたのよ」

と、初めて紗桜とあった日の、その後を話し始めた。

「それでね、翔君があまりにも紗桜さんの気持ちばっかり考えるから、『私の気持ちはどうでもいいの?』って聞いたの。そうしたら、『あいつ以外に優先するものなんてない』って言われたわ」

それから千夏は笑顔のまま、「でもね、今なら分かる気がする……。あなたと話して、ようやく分かったわ」

と、手を差し出して、「友達になってもらっていい?」

と、紗桜に尋ねた。紗桜はためらいなくその手を握り返すと、

「もちろん。あなたと友達になれて嬉しいわ」

と笑った。

——雨が降り始めてから二日後の、薄暗い桜の木の下で、紗桜と千夏は友達になった。

その日の夜、紗桜は翔に教わった通りに電話をかけた。

「もしもし、紗桜?」

「翔君?」

紗桜は初めて自分からかけた電話に、ドキドキしていた。

「なかなか、会いに行けなくてごめん……」

そう言った翔に、「ううん、いいの。それより、曲作りの方は順調?」

「ああ、順調だよ。紗桜の方は、雨、大丈夫だったか?」

翔の言葉に、紗桜は自分の木を見渡す。

「……うん、大丈夫。あ、あのね! 今日、千夏さんが雨の中きてくれたの!」

紗桜は続けて言った。

「千夏が?」

翔の言葉が心配の色を含んだ。紗桜はその声を聞いて、千夏からの言葉を思い出し、すぐにフォローを入れる。

「心配しなくても大丈夫よ。『ごめんなさい』って。あと、『お友達になりましょう』って言ってくれたの。すごく嬉しかったから、翔に早く伝えたくて」

紗桜が電話越しで笑顔でいることが分かる。翔は嬉しくなった。

「そうか。良かったな」

「うん!」

翔の言葉に、紗桜は全力で返す。そこで、二人の会話は、一気に静けさを取り戻した。

「——会いたい……」

「え?」

翔のぽそっと呟いた声に、紗桜の心臓が一瞬で音を立てて跳ねた。

「紗桜に会えない日が、すごく長く感じる……。つい最近出逢ったばっかなのに、今までどうやって過ごしてきたのか、何も思い出せない。こんなに会えない日が切ないものだなんて知らなかった」

そう言った翔に、紗桜は、「私も会いたいよ。だから、早く曲を完成させて会いに来て……お願い——」

と、雨に濡れて落ちていく桜の花を見て拳を握った。

——その時、なぜ俺は、君が嘘をついている事に気が付かなかったんだろう。